ものがたり(旧)

atsushieno.hatenablog.com に続く

コンピュータ自動生成物は著作物ではない

これは先日ちょこっとコメントで書いた「コンピュータ自動生成物の著作者は誰か」という話。例によってこの問題を正面から論じているのは田村善之教授くらいしか居ないので*1、氏の「著作権法概説(第2版)を中心に論ずる。

まず問題提起がある。

おそらくは、近い将来、外形的には著作物であるが、現行著作権法上は著作者がどこにもいないといわざるをえないコンピュータ自動生成物が巷で散見されるような事態に至るであろう。すでに、自動要約の世界では、元となった著作物の類似性の範囲を脱するようなドラスティックな要約が自動的にできることもあるようである。立法論としては、当該間隙に大して何らかの法的な対応をなす必要があるのかということが問題になる。

ブログを眺めていたら実はBlogPetで生成された文章だった、などという経験をしたことのある人も居るかもしれない(あるいは「ゆいチャット」とか)。機械翻訳されたサポートページを見て「バカにされた」と感じなくなる日も遠くないかもしれない。

同書では、続いて、まず権利擬制に否定的な見解が展開される。

一方の極には、技術の発展により簡単に自動創作をなすことができるようになった以上、特に著作権による保護を与えてやる必要はないという政策論があり得よう。著作権というインセンティヴがなくとも、十分な量の(外形的)著作物がこの世に現出するのであれば、その利用の自由を優先すべきなのであって、無理に人工的な排他権である著作権を設定する必要はない、という論法にはかなり説得力がある。(P.400)

しかし、田村説的には自動生成と人類の創作に区別が付けられなくなったら、自動生成も保護しなければならないらしい。以降すべて権利擬制に積極的な議論が展開される。

ただし、このような考え方に対しては、自動創作の技術の開発にかなりの投資を要するとすれば、何らかの法的保護を与える必要があるのではないかという反論もありえよう。せっかく、購入したシステムを用いて生成される物が、自由に複製されてしまうとすれば、何のために高い機器を購入したのか分からない。結果的にシステムが買い叩かれるために、システムの製造者、ひいてはシステムの開発者に十分な対価が還流しなくなり、システム開発インセンティブに不足が生じる、という類の議論である。

僕は現代においてこの「高い機器」はかなりフィクションになりつつあると思うが、実態を把握しているわけではないので、(今のところ)この仮説を肯定も否定もする意思は無い。

この補足として、特許発明があったとしても、その効果は最終生成物には及ばないことも論じられており、その権利の擬制をシステムの運用者に与えるという解決案についても否定的に語られている。

ちなみに

かりに自動生成物に著作権の保護を与えないとすると、人間が生成したために著作権の保護が及びうる著作物と、コンピュータが生成したために著作権の保護を享受し得ない著作物とを外形的に区別することができないことになるという事態を問題視する議論もありえるように思われる。外から見て著作物か否かということが分からないとすれば、著作権に関する取引の安全が阻害される。(P.400-401)

とも書かれているが、これを問題視するなら、むしろ無方式主義こそ問題にしなければならない。著作権の保護期間を満了した著作物とそうでない著作物は、外形的には区別できない*2。取引の安全など、存在しないのである。*3

最後に、以上の氏の議論は解釈論では全くないということが、念を押されている:

なお、以上の議論で、コンピュータ自動生成物に関して「著作者」を観念したのは、著作権の原始的取得者を「著作者」と称する現行法の規律に合わせたまでのことであり、創作的表現に人格的利益が付着していない以上、著作者人格権を認める必要は毛頭ないと言えよう。(P.401)

僕は、既存の知的財産法の解釈に基づいて、何ら権利を認める必要はないという結論をストレートに導出することが出来る。

ソフトウェア関連発明に関して起こった議論を思い出してほしい。そこでは、コンピュータを使用した発明における自然法則の要件は、計算機という「圧倒的な計算量をもつ物理装置」であった。すなわち、コンピュータを使用して自動生成された、人為的な創作的介入の無い作品は、単なる自然現象なのである。

渋谷達紀「知的財産法講義II 著作権法・意匠法」では、次のように解説されている:

類人猿に絵画らしきものを描かせた飼い主は、著作者ではない。類人猿を道具として用いたところに飼い主の精神的作業が認められるとしても、出来上がった作品には、飼い主の表現上の思想感情が投影しているとはいえないからである。(P.47)

判例もある(田村・同上 P.398)。長尾鶏の飼い方にどれだけ気を遣って美しく尾の長い鳥を得たとしても、その鳥は飼い主の著作物にはならない(高知地判昭和59年10月29日 判タ559号291頁)。

類人猿も、長尾鶏も、コンピュータも、すべて自然現象にすぎないのであるから、自分が飼い慣らしたソフトウェアがどんなに上手い絵を描いても、自分はその絵の著作者ではないのである。

もちろん、これは自分が作品の表現の創作に全く関与していない場合についての結論であって、創作を補助するコンピュータを使用すれば直ちに操作した者が著作者でなくなるわけではない。

さらに、自ら鶏の足を持って紙に付着させるなど、自己の意思を自在に成果物に実現することが可能となるような手段を採用した場合に初めて成果物は著作物となる。(田村・同上 P.398)

ただし、意のままにならない道具であっても、ある程度は制御することのできるものを用いた場合は、作品に表現上の思想感情を投影させることが可能であるから、その道具を用いた者は、著作者となりうる。また、でたらめに絵画を制作しているように見える前衛画家も、絵画の出来映えを偶然の支配するところに委ねると面白いかもしれないと考え、そのような表現上の思想感情に動かされて絵画を制作するのであるから、その絵画の著作者である。(渋谷・同上 P.47)

厳密に「意のまま」にならなければならないとしたら、音楽を演奏で表現したものはほとんど音楽の著作物にならないかもしれない。テルミンなんかをもちだすまでもないだろう。

この意味では、4'33を創作したJohn Cageは、全く著作者の要件を満たしていない。もちろん、彼をなお著作者であると解することは可能である。視覚的創作物として、カメラでただボタンを押して得られた作品は、絵画ではなく写真の著作物として扱われる。それと同様に、ある特定の環境における音像を録取しただけの4'33は、音楽ではない別種の著作物なのである。

本題に戻って。

産業革命が起これば、ある種の市場が消滅することは避けられない。自動生成で作品があふれるようになったら、かつて著作物と言われていた存在がコモディティ化するのは当然で、そこに無理矢理権利を擬制する必要はない。おそらくそのような時代が訪れれば、むしろ「職人」である従来的著作者たちは、自動生成物に権利を認めるべきではないという議論を展開することになろう。*4

*1:他にもあったら、教えていただきたいですね

*2:ちなみにこれは保護期間を短縮することで大きく法的安定性を改善できる

*3:なお、著作権を有していない著作物に自らの著作権を偽装する行為が、不正競争防止法違反、業務妨害罪、詐欺罪など各種犯罪行為の構成要件に該当しうることは言うまでもない。

*4:この問題は「いや、ロボットの時代にはロボットの権利を守るべきだ」という議論とは全く関係ないことに注意。ここで議論されているのはロボットの権利ではない。