ものがたり(旧)

atsushieno.hatenablog.com に続く

プロパティ

propertyという言葉を聞くと、僕が最初に思い浮かぶのは(もちろんプログラミングタームにおけるそれは別として)所有権あるいは財産権という訳語だったのだが、その思い込みを晴らしたのは、代理母関係でちょっと言及した*1以下の吉田邦彦「民法解釈と揺れ動く所有論」の記述だった:

なお、…用語法について念のため一言しておきたい。propertyを「財産権」と訳する(原文ママ)ことは、既に定着している(憲法二九条参照)が、若干注意が必要だからである。すなわち、この議論の源となっている英米の私法体系は、わが民法体系とは違っていて物権・債権の区別を知らず、従って、contractでもpropertyとして観念されて保護を受ける(債権(契約)侵害法理)。しかしそれにもかかわらず、propertyとして主に語られるのは、所有権を中心とする物権法及び賃貸借法であり、わが民法上言われる「財産法」ないし「財産権」とは、ニュアンスが異なることは押さえておいてよいであろう。
(P.535)

このような理解があると、たとえばローレンス・レッシグが著書「CODE」において、知的財産権についてliability ruleを適用すべしとしたことが、概念的に理解できる。補填ルールはpropertyの議論の射程内に、もとから存在していたということではないだろうか。

ちなみに(propertyとは全く関係のない話だが)、この章は森村進「財産権の理論」に対する批判的書評なのだが、森村の著作権不要論に関する言及も興味深い。

氏によれば、著作権とは過保護の権利であり、著作物の複製や二次的著作物を通じて(著作権法二一条、二八条)、人工的な排他的支配権を与えることは十分に正当化できず(自己所有権テーゼにおける「価値の創造」論及び帰結主義インセンティブ論を考えうるが、十分ではないとする)、思想や情報は一旦自発的に公表されたならば、公共のものとなり自由に利用できると考えるべきだとされるのである(一六九-一七三頁)。かなり極端な立場だが、論点それ自体は明快である。私見との違いを一言するならば、私自身は著作権の人格的性格に鑑みて、先行創作者の利益 - それが、後行者の自由な利用とトレード・オフ関係にあることを認めつつも - に、もう少し配慮する(詳しくは、本書第九章参照)。しかしそれにしても現行法制度に問題があるとする氏の主張に魅かれるのは、近年の複製技術の発展ないしデジタル化に伴って、著作物の大衆化が進み、現行法上の排他的支配権は過度に強力なものとなり、事態適合的でなくなっており(現行法制定当時とは、コピーに関する状況が激変している)、従って創作者の利益を保護するにしても、対価徴収という形での別の制度設計が急務となっているからであろう。
(P.552-553, 強調は僕)

吉田当人はJames Boyleが批判するところのromantic authorship(あるいはwillian fisherが説く知的創作に向けての進取の精神)の確信的信者であることを自認しているそうで、従って上のようなコメントになるようだ。

*1:言及は少ないかもしれないが、そもそも同書にインスパイアされて書き始めたものだし、論点の列挙はほとんど模倣である。