ものがたり(旧)

atsushieno.hatenablog.com に続く

報道の受け手が留意すべき「批判の良心」についての私考

これはとても良い記事。id:atsushieno:20090118:p2で書いた2008年の懸念を、他にもしっかりと感じ取って言葉にしてくれている人がいることを心強く思う。
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20090212/324601/

この記事の目的は「マスゴミ」が反省しているんだということを見せることにあるんではない。マスコミが中立性を捨てて過剰に攻撃的な報道を行うという社会問題がなぜ生じているのか、それをマスコミが直面している構造的な問題を分析して説明しているんだ。

ここで一番批判されているのはマスコミではないよ。マスコミが何かしらの失敗を犯したときに「だからマスゴミは…」とかブログやmixi日記で書いているようなオマエらのことだよ。この記事で言われている「正義とは何か」って、そういうことだろう?

情報の受け手が発信者になっている現代において、オマエらは自分自身が「ゴミ」にならないように気をつけないといけないんだよ。過剰に攻撃的な報道を嗤え。NOを突きつけろ。それが2009年のリテラシーだ。

もちろんこれを聞いてネットが「批判しない」空間になってしまったら意味がない。世の中には批判しかしない人間もいるが、彼らにだって立派な存在意義があると僕は思う。批判が変なベクトルを向いているようにしか見えない人だっているだろう。それは道義的に責められるべきことではない。たとえそれが地獄への道を敷き詰めているものだとしても、それは個人の善意に基づくものだ。道義的には責められないけど、地獄への道を敷き詰めることは望ましくないことだから、変な批判はしない方が良いし、変な批判には変だよときちんと指摘したほうがいいけど。

でも、意図的に批判を過剰あるいは不当に膨らませる奴とか、無辜のネット民を扇動する技術ばかり身につけている奴はいらない。社会や他人の問題を粛々と指摘し報道・言及するというのは、そういう欺術に頼らないことだ。それは僕はどちらかといえば悪人のやることだと思う。*1

少なくともMIAUは、WaiWai問題の時に一部の2ちゃんねらーが腕を磨いた「電凸の方法教えます」とか「ボイコットのうまいやり方教えます」みたいな「ネットユーザーによる糾弾活動」を指南する団体にはなってほしくないし、したくないと思う。

*1:民法では「悪意」というのは「悪い意思」ではなく「知っている」ということを表すが、このテクニカルタームは上の「単なる(善意の)批判屋」との区別を上手く説明できる言葉であるようにも思える。