著作権保護期間延長論は憲法学の財産権理解と矛盾する
最近、著作権は人権であるとして著作権保護期間延長論を吹聴して回っている者がいるようだが、この説は実は憲法学における財産権の理解と矛盾する。本エントリでは、最も関連性の深いと思われる論文集を参考として紹介し、これを証明する。長大なエントリだが、実は引用文を読まなくてもそれなりに理解できるかもしれない。
- 作者: 山下健次
- 出版社/メーカー: 三省堂
- 発売日: 2002/01
- メディア: 単行本
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ちなみに、三省堂のサイトにあるはしがきも参考になる。
財産権は憲法29条で定められているが、29条には第2項、第3項があり、公共の福祉による制約を受け、かつ正当な補償の元に公共のために用いられうる。なぜ財産権には生存権や思想の自由権などと異なり、このような制約が認められているのか。本書の第4章では、第2章でおける制度的保障論の限界についての論説に基づいて、財産権の憲法的位置付けについて説明されている。
(P.185-186, 強調筆者)
問題のたてかたとして、憲法二九条の保障する財産権を財産権一般の保障と制限とみる見解を克服しようとする動きは早くからあるが、やがてそれは、「財産権規制二分論」や「財産権二分論」へと発展していく。このような見解や展開については、かつて筆者はやや詳しく論じたことがあるし、また、鳥居喜代和教授による検討があるので、ここでは深く立ち入ることは避け、生存財産権論の積極的展開という観点から必要な限度で言及するにとどめたい。
日本国憲法の下での生存財産権論の展開をごく簡単に要約すれば次のようである。まず財産権保障を労働権とともにすべての国民に生存権を確保し幸福追求の権利を保障する手段たる意義を有するとする、初期生存権的財産権論ともいうべき我妻栄教授、「生存権の延長」とみる考え方を示唆した宮沢俊義教授、人間としての価値ある生活を営む上に必要な物的手段の共有を私的財産制度保障の中核に置く今村成和教授、社会国家論の立場から主張された大きな財産に対する小さな財産権論を説く高原賢治教授などの諸見解が挙げられる。しかし六〇年代以降このテーマに関して最も精力的な理論活動を展開したのは渡辺洋三教授と景山日出弥教授であった。
渡辺教授は、「人権でない財産」=資本主義的私有財産制度の中核を支える資本所有権、法人企業とりわけ独占的な巨大企業の財産権に対して、「人権としての財産」=それなくして人間が人間として生存できない権利としての財産権を不可侵の権利とする。その具体的中身は後にあらためて検討するとして、それは、いうところの人権としての財産権に対する権利の詳細な展開というよりも、むしろそれと区別された人権でない財産の意味およびそれに対する制約論に力点が置かれていたといってよかろう。
景山教授は、現代財産権の社会的存在様式とその主体に着目して次のような分類を行う。すなわち、(1)労働者とその財産 ── 自己および家族の再生産に必要な人間的個体生存の物質的基礎としての個人の私的所有、(2)小商品生産者(農・漁業、都市自営業者)、商人、抽象企業者などとその財産 ── 直接生産者とその労働に基づく人間的個体生存の再生産に必要な財産、(3)資本家とりわけその基本的主体としての独占による資本家的所有。そして、(2)と(3)(原文ママ)は、人間の個体的生存に必要な所有としての憲法上の基本権であるが、それらと鋭く対立する(3)は、憲法上の基本権たる資格を欠いているとするのである。そこでは確かに、「憲法上の財産権は、歴史的にも、倫理的にも、人間の個体的生存の権利であるから、この集積体系(=独占)をふくまない概念でなければならない」として、独占による人間的個体生存の侵害を帰結することを否定するような財産権論の構築はめざされている。…(後略)
ちなみに生存財産権論が主に意識しているのは、農地改革における土地収用の合憲性にかかる問題なのだけど、渡辺・景山両教授の説は1960年代に既に展開されている。ちなみに本書の発行は2002年。ただしこの時点では、「人権としての財産」の概念については、「別に詳細な検討をなすべき課題」として残されていたと、山下教授は説明している。
続いて、棟居快行教授による二分論批判に基づく「人権論の新構成」について言及されている。同教授は、財産権保障の現行憲法上の存在意義は、自立的人格の展開に対して物理的前提を提供する」ことにあり、その具体的な意義として次の5項目が挙げられるとしている(と山下教授は説明している)。
- 自由の契機
- 精神的自由を中核とする人格的自由に対して物理的外壁を形成し、財産法に基づく妨害排除請求によって保護機能を果たすという意義
- 機会平等の契機
- 平等な人格的自由を各人が思い思いに展開させるという、人格の自由な発展に、機会資源を提供するという意義
- 自助的生存の契機
- 経済的生存を自力で果たすための営みや蓄えを保護するという意義
- 労働の契機
- 人格的自由の行使一般という広義の意味での労働の成果の帰属を保障するという財産権に残された機能
- 参加の契機
- 財産権を媒介とした政治・社会過程への利害関係人としての具体的参加の糸口を提供する機能
(かみくだいて説明すると、生存のために必要な財産に対する権利や、貯蓄の保護、労働賃金不払いに対する保護などは人権としての財産権の範疇である、ということであろう。)
(P.193)
右のように財産権保障の存在意義を自立的人格保障機能に着目してとらえると、これらの機能を果たす財産はすべて憲法上保障される財産権に含まれるのに対し、いずれの機能とも結合しない財産 ── 独占的・資本家的財産は人権としてではなく、資本主義制度が保障されることの反射的利益としてのみ、憲法上の保護を与えるとされる。そしてこの後者については、それが、資本主義制度の維持という財産権保障の制度的意義(自立的人格の展開という第一の意義に対して財産権保障の現代憲法上もつ第二の存在意義)を損ねる作用を果たす場合には制度的保障による保護も否定されるから、人格的自律を支える「人権としての財産権」、「制度的保障の反射的利益として保護される財産権」、「憲法上の保護を見出しえない独占財産」の三分論になるとされる。
ちなみに宮沢俊義は(同教授は第2章で批判的に分析される制度的保障論の立場にあるが)次のような示唆も残しているという。
「社会国家的人権宣言の見地からすれば、財産権についての従来の自由権的な考え方を転回させて、これに多かれ少なかれ社会的な性格をみとめ、それをむしろ生存権の延長 ── 最低限度の生活に必要な財産を支配する権利と見るという考え方が成り立つ余地があるのではないかと思われる」(P.52)
いずれについても、ここで明確なのは、AならばすべからくBである、というアサーションとしては、財産権は人権であるという考えは絶対に誤りであるということである。
さらに一歩進んで。著作権は、まずその一般的特性から鑑みて、この「人権としての財産権」に含まれないことは明白であろう。棟居教授の分類としては「制度的保障の反射的利益として保護される財産権」に位置づけられるであろう。個別具体的には「憲法上の保護を見出しえない独占財産」に該当する場合も当然にあり得る。
仮に、著作権が無ければ生活に困る、生存することが出来ない、という人物が居るとして*1、その著作権について人権としての財産権が個別具体的な事例に当てはめて認められたとしても*2、その権利は著作者の生存期間中のみ保護されていれば、「人権としての財産権」としての機能は十分に達成できているのである(もちろん、著作者が著作権者でないのであれば、そもそも人権としての財産権ではあり得ない)。
追記: 制度的保障論の関係で興味深いエントリを発見
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20061006/p2
僕の知る限り、石川健治はかなりすごい学者である(しかもモヒカン族)。現役東大生ならあの授業は必ず2年以上受講しておくべきだ(酷)。「自由と特権の距離」のamazonレビューなど、べた褒めに近い。でも↑のコメント欄を見て恐くなったので、僕は読んでも何も書かないことにしておこう。(ry