ものがたり(旧)

atsushieno.hatenablog.com に続く

代理母について part I (たぶん)

最近、電車の携帯電話マナー神話に関する情報*1を探していた時に、初めて http://simple-u.jp/ という日記サイトを見た。で、最初は、これは面白いと思ってフツーに読み続けていたのだけど、気がついたら2日かけて全部読んでいた。

それはそれとして、先月最高裁判決が出た向井亜紀代理母関係は、魑魅魍魎のような論争の世界があって、なかなか面白いと思う。まずはWikipediaでその一端を覗いてみると良いと思う。

個人的には、代理母の合法化議論については、特にいずれかを支持する気にもなれない(ただし先月の最高裁判決は子供の権利を無視している点で妥当でないという立場に立つ)が、どちらの立場の主張にも違和感があるので、雑感をまとめてみたい。ちなみに僕は基本的に素人である。

「人間として許されない行為である」という見解

この見解には何ら論理的な背景が無いので、むしろ宗教的な主張だと思われるが、最高裁は、自らの信条に基づく自己決定の意思表示を、生命倫理に優先するものと判断している(輸血に関するエホバの証人事件)。一般に自己の宗教観は他人の自己決定権に優先するものではない(自殺は自らに対する殺人罪としては評価されない。自殺関与は「他人の」生命であるからこそ問題になる)。尊厳死に関する判例でも、合法とする要件を列挙していて、違法扱いはしていない。

ちなみに自己決定と書いているが、正確に言えば決定権者の意思決定といったところだろうか。具体的な当事者関係を意識した議論は、こんな宗教レベルの設問を越えたところでなされている事柄だ。

「母子関係は分娩の事実によって生じる」判決の意味

代理母問題で常に意識しておくべき事は、これは生殖医療の技術とは切り離して考えることができないから、常に同時代的な判断が必要とされる、ということだ。その観点では、最判昭和37年4月27日民集16巻7号1247頁については、この代理母問題について援用されることには疑問がある。この事件は、母親が非嫡出子を認知しなかった(!)ことを争ったもので、母子関係は分娩の事実によって明白に生じるとしたのは、非嫡出子の(母子)関係の存否に関連した事項であり、そもそも代理母技術が存在しなかった頃の傍論にすぎないのである。

法律学の世界では、人の始期に関する議論は常に流動的である。この問題に関しては試験管ベビーについても言及している2ch「背徳の刑法学」が秀逸なのでオススメ。

黒人差別議論

黒人差別に関する議論は、日本だと意識しにくいが、(a)商品化された母体機能に価格差があること自体が問題になるという点と、(b)価格に表れていない pricelessな部分(たとえば白人に対する需要の集中)で問題になるという点は、別々に考えるべきだと思う。(a)については、フィリピンの臓器売買のように、認可機構を設けて価格を統制あるいは単純に有償契約を違法化すれば、解消する問題ではないかと思う。

(b)は、直ちに代理母を禁止するか否かという問題というよりは、代理母の選択を規制(市場介入)するか否かという問題であって、やや考察に困る。だが、差別議論はそこまで問題視しているわけではないように思うし、これを問題視するなら、「眼球のくじ」ならぬ「代理母のくじ」が必要だという結論に至るようにも思われる。代理母を禁止するための全面的な理由とするには弱すぎるように思うし、少なくとも現状では代理母に高度の信頼関係が求められるので、代理母の選択権は依頼者にあることになるだろう。

黒人・白人を、富裕層と貧困層に置き換えれば、日本でもリアルな問題として映るかもしれないが、代理母によって格差拡大が促進されるという側面はほとんど無いように思う。つまり、非代理母であっても人間(あるいは日本人)はもともと同程度の経済層の間で結婚し家庭を構築しているはずで、これを規制することには無理があるし、代理母に限って規制すべきであるという理由は無いように思う。

障害者差別議論

ここには次元の異なる複数の問題が含まれていて、Wikipediaの記述のように全部まとめてしまうことには問題があると思う。

  • (a)まだ人になっていない胎児の時点で障害をもつ子を排除することの当否
  • (b)障害を持つ子を依頼者が引き取り拒否する場合の法的評価

(a)は、劣悪遺伝子排除法*2の当否ではない。既に人として法的に人格を認められている障害者は、その人権を非障害者と平等(平等の実質についてここで立ち入る必要は無いだろう)に尊重されて然るべきだと思う(=劣悪遺伝子排除法は妥当ではない)が、障害がある胎児を中絶することが障害者の差別に繋がるという考え方は、正直理解に苦しむ。そもそも、着床後所定期間を経過する以前の段階では、非代理母における中絶も自由であり、その理由は特に制限されているわけではない(すなわち選択が許される)のだから、代理母に限って規制すべきだという理由にはならないだろう。

そもそも、障害胎児を中絶できるという立場は、障害者が人格的に劣っているという認識ではないように思う。障害者がその障害によって非障害者よりも活動の制約を受けていて、障害をもつことは何らかの意味で「不幸」をもたらしているという事実は、むしろ認識しなければ、まずい結論(=特別な支援は必要としない)に至ってしまうだろう。

以上をふまえて、障害とか父親不明といった事情で、胎児が生まれたら「不幸」になるとあらかじめ分かっている場合は中絶しても良いという考え方は、「父無し子を産みたいなんてとんでもない」みたいな保守的な考えに見えるかもしれないが、これは母体保護法という立法によって、制度的に是認された立場だと思う。

障害胎児は中絶「しなければならない」という立場があるとしたら、それは障害者差別に繋がると評価しうると思うが、全当事者の同意を無視して医師が中絶しても良いということにはなっていないと思う。ちなみに、障害胎児の診断は、第一義的には母体保護の観点で必要となると僕は理解している。

(b)については、意思主義に基づいて考えれば、代理母側に原因があるのでもない限り、依頼者が引き取るものとすべきであろう。といっても、これ自体はそもそも代理母契約を契約法の枠組みで考えるか、家族法の枠組みで考えるかという問題とも関連するものなので、項を改めて考えたい。

たぶん続く。

*1:ちなみにコレ

*2:銀河英雄伝説に出てくるやつね