ものがたり(旧)

atsushieno.hatenablog.com に続く

代理母について part II

part Iから10日以上経過してしまったのだけど、もちろん忘れていたわけではない。

前回はwikipediaの記述に引きずられてしまった感があって、ほとんど話が整理できていなかったので、基本的な議論の構造を示しておきたい。まず、代理母出産に対する基本的な態度は、次の3つに集約される:

  • (A)いかなる代理母出産も{禁止|無効}
  • (B)有償代理母契約は{禁止|無効}
  • (C)いかなる代理母出産も{許容|有効}

(ここで、禁止とは刑事上の犯罪とすることを、無効とは家族法上の法律効果を認めないことを、それぞれ意図している。刑事犯罪と契約無効は必ずしも一致しないのだけど、ここでは多くの場合は便宜上まとめて扱う。)

以上を、さまざまな論点について考えることになる。たとえば、前回の内容は、(A)説の立場としての生命倫理議論と分娩判例の先例性を否定し、黒人差別論について(C)が妥当でないから(A)であるべしという立場を((B)がありうるとして)否定したものとして読める。

以上の3つの帰結があり得ることは、常に意識しておきたい。

次に、代理母出産については、依頼者・代理母と遺伝的関係が有るものと無いものがあることに注意しておくべきである。父親の遺伝子が不在のものまである(つまり遺伝的には第三者代理母の間の子を、依頼者が引き取るという構図)。これは特に親子関係の認定で議論になる。代理母懐胎にはいくつかの類型があるため、あらゆる類型の契約について有効とするなら、新たな家族の形態を認めることにも繋がる。母親が2人居るのはCLAMPの「二十面相にお願い」だっけ?

黒人差別議論の補足

前回は「日本だと意識しにくい」として、ほぼ日本でのコンテキストに基づいて書いたのだけど、米国でなぜこれが問題になるかというと、白人依頼人が黒人女性を代理母として子供を産ませるという図式が、親権のない「黒人ばあや」が白人の主人の子を育てるという奴隷制のエクスペリエンスにオーバーラップするからだという。代理母が翻意して子の引き渡しを求めて敗訴したJohnson事件は、実はこの構図に当てはまる。

現状では代理母のほとんどは中流階級の白人だが、Johnson事件判決などを見ると、特に黒人が白人の親となることは非常に消極的に見られていて、黒人の代理母の意向が軽視され、結果的に白人にとって黒人のホストマザーが安全牌扱いされてしまうのではないかという指摘もある。

もっとも、これは日本の制度を考える上での論点にはならないし、(米国においてすら)代理母が翻意した場合にはその意思を尊重する立場という視点における問題点であって、そもそも代理母には意思主義に基づく引き渡し義務があるという立場に対する批判にはならない。

フェミニストの議論

wikipediaの記述を見ると、フェミニスト代理母に反対の立場を採っているように見えるが、実際にはその派閥によって全く異なる議論がなされる(どんな論点でもそうかもしれないが)。吉田邦彦は「民法解釈と揺れ動く所有論」(この本は非常に面白いので、別の機会に改めて紹介したい)で、米国のフェミニズムの立場を便宜的に以下のグループに分類して紹介している(要約は僕が適当に端折ってまとめたもの):

  • リベラル・フェミニズム: 女性を単なる生と捉え、出産も単なる生理プロセスとしての役割にすぎないと考える。両性的社会の実現過程としての人工生殖に肯定的な立場もある。Lori Andrewsなど
  • ラディカル・フェミニズムあるいはマルクシズム・フェミニズム: 生殖のコントロールにおける性的不平等の問題が生じるとして、代理母制度には敵対的である。マルクシストは人間疎外を問題にする。Margaret Radinなど
  • 女性中心主義的フェミニズム: 従来の男性中心の公的活動の価値を疑い、責任と配慮の倫理を強調する。一方で生物学的・本質主義的色彩も強い。有償代理母には批判的である。Elizabeth Andersonなど

代理母賛成論の立場は、自らの行動についてリスクを意識し同意している女性の自己決定性を尊重し、この問題を契約の問題とするというものである。この立場では、医学上の問題よりも当事者意思が尊重でき、子の最善利益も無理なく実現する。当事者の意思が衝突した場合は契約の問題として処理することになる(一定のクーリングオフ期間を設けるという立場があるが、その理由は不明)。Baby M事件判決については、生理に支配される女性という固定観念を強化するパターナリスティックなものであるとして批判する。代理母に対する履行の強制については賛否両論ある。

賛成論の立場はシンプルなものだが、反対論はさまざまな見地からこれに対する批判を試みる:

  • 契約的アプローチでは、逆に、新たな形での家父長的権利を生み出すことになるという批判。代理母制度は、抑圧的な性的役割の強化になるとする。すなわち、不妊の妻との間に緊張関係が生じ、女性は代替的な存在となってしまう。
  • 人格論的否定論。子の放棄に向けて親の愛を低める取引は代理母の自立性(生理的に生じると思われる母性愛)を否定し、操作による支配関係を形成することになる。これは特に有償契約の場合には、依頼側に代理母に対する利他的動機が存在しないため問題とされやすい。
  • マルクシスト的分析。今日の性的不平等の下では代理母になる・ならないという「選択」に制約があるために、性の商品化問題が生じる。
  • 代理母は子の引き渡しを苦痛に感じるという。10%はセラピーを要するともされる。

以下若干の考察。

遺伝的観点から母親を決定することについて、反対論者は性的不平等に繋がるとしているが、同じ問題を賛成論者は自己決定性の向上に繋がり性的不平等の解消に繋がるとしているのが面白い。

日本の弁護士会は、さらに、無償契約の場合は近親者が代理母となるケースが多くなるため、代理母側が断りにくいので無効化すべきだ、という主張をしているが、僕の視点では、骨髄バンクや輸血については、そのような事情を考慮して任意性に瑕疵ありとしているわけではないのだから、これはほぼ余計なコメントと考えるべきだろう。吉田同書では、米国でのさまざまな議論が紹介されているが、かくのごとき反対論は全く見られない。(僕は、法曹関係者が、家族法関係を自らの利益になることなく複雑化させられるこの問題について、あまり中立的な議論が出来るとは思えない。)

原典に当たっているわけではないから正しいかどうかは知らないが、女性が代替的存在となってしまうという議論は、依頼人たる男性の妻が卵子提供者でない場合のことを指していると思われる。遺伝的母親である場合に、不妊の妻が代替可能な存在として疎外されることはないであろう。では依頼人卵子提供者でなければならないとして良いか。精子提供者は依頼人でなくても良いとするのは男女平等に反する。依頼人両者が遺伝子提供者でなければならないとしてしまうと、代理母の多くのケースが禁止されてしまう。この「疎外感」は、そこまで強い効果を認めるに足るものであるとは、個人的には考えにくい。

セラピーというと由々しい問題であるように思えるが、通常の出産においてもある種のケアはそれなりに一般的ではないかと僕は思う。とはいえ、この問題に由来するケアを他のケアと同様に生理的なものと見なせるかどうかは分からない。

いずれにしても、代理母反対論について最も重要なのは、これらはいずれも単なる母体や生理機能に対する所有権的リベラリズムが、無制約ではあり得ないということを含意するものだということである。

たぶんまだ続く。てか、代理母議論自体より先に進みたいのだけど…