ものがたり(旧)

atsushieno.hatenablog.com に続く

有害情報規制法案の検閲該当性と立法者の遵法意識について

MIAUの面々も最近話題にしている「青少年の健全な育成のためのインターネットによる青少年有害情報の閲覧の防止等に関する法律案」(なげーよ)について。何の話?と思った人はこの辺を参照:

高市早苗議員は、青少年なんちゃら委員会は単にフィルタリング基準を選定するだけであって、実際のフィルタリングは民間団体が行うわけだから、公権力による検閲には当たらないと主張しているようだが(この辺のロジックについては前記エントリを参照)、その点について疑義を呈しておきたい。

憲法学者芦部信喜は、「検閲」の意味について、特に事前抑制に関する広義説に関して、次のように記述している*1


これに対して、(ロ)説は、検閲概念をより機能的に捉えるので、その周知を徹底させれば、たとえば、マス・メディアの自主規制であっても、自主規制機関が公権力から非公式の強い圧力を受け、それを実質的に代弁するような形で一定の情報を「思想の自由市場」から排除してしまう場合とか、青少年保護条例に基づいて設置された委員会(行政権)が、指定した有害図書類のリストを図書配給業者に通告する際、非協力業者は起訴されることもあり得る旨を伝え、それを裏付けるかのように警察当局も配給業者にいかなる処置をとったかなどの調査を行い、そのため配給業者が発注・販売を停止したり小売業者から当該図書類を引き上げたりする事態が生まれたような場合には、言葉の厳密な意味での事前検閲は存在しないとしても、実質的には「非公式の検閲」 (informal sensorship) とも言われる出版物の伝播に対する重大な抑圧が行われたと言えるので、それが事前検閲と同視され、憲法上許されないと解されることもありうることになる。

アメリカの判例理論における事前抑制 (prior restraint) はこのような広い概念として考えられ、それが検閲 (censorship) とも呼ばれるのが通常である。したがって、裁判所による事前差止も当然に検閲の一類型である。

(芦部信善「憲法学III 人権各論(1)」 P.363)

検閲の意義については、憲法学上もさまざまな立場があり、「検閲には当たらない」というのは、単なるひとつの「主張」にすぎず、通説的とはとても言えない。特に高市案の発想は、これまでに無かった類型の「脱法的な」法律構成であり、「検閲の禁止」の本来の趣旨に沿った解釈が必要になる。新しい形態での権利侵害には、新しい問題に適合した解釈論が必要となる、というのと、パラレルに考えることが出来る。

本来、公権力として行使することを想定されている権力を、非公人が行使する他の例を考えてみよう。たとえば犯罪者の現行犯逮捕について。現行犯逮捕というのは、警察関係者でなくても行うことができる*2。この時、逮捕に関する刑事訴訟法上の諸制約は「民間人であるから適用されない」と言うことが出来るであろうか。

憲法というのは、法律を規制するメタ法律的な存在だ。「法律を守る者」としての立法者に求められることは、憲法の課する制約の「抜け穴」を探して「脱法行為」を行うことではなく、法の定める制約を尊重して立法活動を行うことなのである。

高市議員にとって、有害情報というのは真に唾棄すべき「敵」なのかもしれない。有害情報を規制したいか?と人に訊いたら、皆が「規制したい」と答えたかもしれない。しかし、目の前に人間のクズみたいなのがいて、誰もが「死ねばいい」と思っているとしても、現実に殺害することは許されないのである。

高市議員の立法者としての良識と規範意識は、一体どこにあるのだろうか。

*1:芦部・樋口・佐藤・辻村・松井・伊藤など憲法の専門書の類をいろいろ眺めてみたが、特に詳述していたのが芦部だった。芦部「憲法」ではなく「憲法学」の方である。念のため。

*2:たとえば、逃走する万引き犯を捕まえても、刑法220条の逮捕の罪には該当しない。犯罪の疑いが全くない人を捕まえたら該当する