最近つらつらと思うこと
一国多制度
わたしが今年になってよく考えるのは、ネット社会は物理的な国家の枠を越えて一国多制度を実現すべきなのではないかということだ。生産的な能力に欠け他人の足を引っ張るだけの能力しか持たない厨房は、厨房だけの国家の中で生きていくのが幸せだろうし、それ以外の人間の足を引っ張るフリーライダー的行為は許されない。われわれ生産的な人間は、われわれだけの仮想空間領域を作って共存し、その風習に与しない厨房は参加できない。そういう国家体系が構築できたらいいと思っている。
自由を尊重しない人間からの自由の剥奪
わたしは何より自由を尊重するというタイプの人間ではない。むしろ逆かもしれない。自由を尊重しようとする人間の邪魔をする人間からは、自由は積極的に剥奪されるべきだと考えている。そのように、自分だけ都合のいい自由を謳歌するフリーライダーは許さないとか、常に言行一致であれと考えているという点では、むしろ公正にこそ重きをおいているタイプの人間なのだと思う。
著作権に関しても似たようなスタンスをもっている。わたしが最初に考えたライセンスは、自由を尊重するためのものではなく、著作権の制限を認めない人間に対して著作権の制限に基づく利用を一切認めないという反射のようなものだったし、ダウンロード違法化に対しても虚偽著作権表示の違法化を主張した。著作権というものは道交法の速度制限と同じで、実質的違法性に欠けるものを違法化している点でけしからんと考えている。まともな学者なら、著作権侵害していない人などまずいないと言っている。他人に見られないように著作権侵害している人間が、他人の著作権侵害を弾劾することは許されない。
性的自由の本質
性的自由に対する侵害などが議論される場合、そこで考えられている「自由」は、ほぼ例外無く好まない関係をもたないという自由=拒絶権だ。しかし性的自由の本質は選択権である。受容権が無いことは自由とは言わない。フルシチョフを賞賛することしか出来ない(=批判できない)自由というのは「自由」ではない。
もうひとつ重要なのは、個人法益たる性的自由は、社会法益たる風俗秩序に優先する価値をもつということだ。自由の行使機会を剥奪するような規制が行われてはならない。この観点で特に最近問題視すべきは「出会い」を制限しようという考え方である。管理売春などではなく、本人同士が真摯な同意に基づいて専ら性的関係をもつために「出会う」ことを規制する合理的な根拠は、実は存在しない。それ以前に「恋人がほしい」程度の動機で「出会い」を求めることすら問題だと勘違いしている人間もいるようだ。そのような考えはむしろ先の「性的自由」を侵害するものであるということを意識すべきである。