ものがたり(旧)

atsushieno.hatenablog.com に続く

著作者人格権の問題ではない、実演家=派生物著作者の自由の問題だ

坂本多聞のエントリー『著作権法の誤解をただす川内康範氏の気概』は、世間一般での著作者人格権についての意識例として参考になった。著作者人格権二元論*1があまり理解されていないのだ。川内康範もその程度の理解だったのだろう。坂本の記述を引用しよう。

ふじた氏はJASRACの「大岡裁き」をお望みのようだが、川内康範氏こそが月光仮面レインボーマンを生んだ日本を守る正義意識の高い方だ。組織的な偽札で日本をハイパーインフレーションによる不幸のどん底に落ちるさまをレインボーマンで描かれた川内氏が今、何を我々に伝えたいとお考えなのか、川内氏の判断を待つべきところだろう。

本当に著作権制度に詳しい人間であれば、ここで書かなければいけないのは、著作者人格権JASRACの管轄外だということである。著作者が過去に何をやってきたかなんてことは実にどうでもいい。もちろん、本人があえて読者に誤解を生じさせるためにやっているのだとしたら、日々読み捨てられるだけのブログの世界では小手先の戦術として有効かもしれないが。僕がTVのニュース等で川内のコメントを見ている限りでは、川内は著作者人格権のあるべき姿をどうこうしようなんて高尚な(?)ことは何一つ考えていない。松本零士より低いレベルの争いを起こしたがっているにすぎない。

そんなわけで、今回JASRACが関与する余地は無いのだが、そんなことはどうでもいい。

大岡裁き」すなわち形式的な法解釈のみではなくその背景にある法思想をしっかりと把握した上での裁断を望むのであれば、そもそも著作者人格権の行使の必要性を認めるためには、著作者の人格権が実際に害されていることを要するところ、森進一が発表後数十年の曲でいかにもアドリブで独自の歌詞を追加しそうなところで追加したからといって、それが川内の創作だと考える者など居ないだろう、と僕なら判断する。

今回の事件を著作者人格権の問題だと主張するだけで自己満足に陥っているのでは、まともに著作権制度を考えることができているとは言えない。今回の問題の本質は、実演家の自由権があまりにも守られていないという点であり、著作者の人格権を害することなく、どのようにビジネスを保護することができるか、というところにある。

僕がid:atsushieno:20070221を書いたときは、著作者人格権各規定が時代に適合しないことを国民が認識して、諸権利規定の改正に至るのではないかと考えていたのだが、現実はこの程度の低レベルな議論で終わってしまうのかもしれないな。

でも、ここで議論の方向を見誤ったら、日本全体の創作性を大きく損なうことになるんだよ。そこまで理解した上で発言した方が良いんじゃないかな。

*1:二元論と書くと飛躍だと勘違いする人が出てくるかもしれないな。著作者人格権の本質、と言えば通じやすいかな。