ものがたり(旧)

atsushieno.hatenablog.com に続く

佐々木氏によるWikipediaの編集ルールに関連するエントリ。

http://blog.japan.cnet.com/sasaki/2007/09/post_14.html

 しかしながらこの「中立的な観点」が成り立っているかどうかというのは、きわめて微妙な判断になる。たとえば先の電子投票の問題点に関する編集は、情報としては正確で客観的だと私は認識しているが、書いた人が中立だったかどうかは知りようもない。たとえば電子投票を推進している部署と対立している部署の人間が、相手の部署の幹部を貶めるために書いた可能性だって、あり得ない話ではない。

この「中立的な観点」を議論する際には、客観的中立性(相当因果関係と同程度の曖昧さというか規範評価的性質を内包する概念であることは否定できない)と主観的中立性とに分けて考えるべきだ(上記記事のように「内容」と「意図」としてもよい)。そして、ここでは刑法学における、積極加害意図があった場合の正当防衛や偶然防衛の処断についての議論が、応用できるように思われる。すなわち、たとえ主観的に殺意がある場合であっても、客観的に急迫不正の侵害がある場合には正当防衛を認めるべきであるのと同様に、客観的に見てその書き換え内容が中立性を維持していると判断できるのであれば、それは中立的な観点になおも立脚したものであると言う事ができるように思われるのである。

もっとも、自己に関する記述は傾向として中立性を損なうものが少なくないし、上記記事でも指摘のあるように、検証性に欠ける(これは客観的中立性の欠如の一類型と評価しうるとも言えるが)のであるから、生物学的に不安視されるがゆえに禁止されるともされる近親婚と同様、(確実な論理的根拠が存在するとまでは言えないが)類型的に抑制するという対応方法は、理不尽であるとまでは言えないだろう。

そういえば、昔mono 1.2のネタをすらどに投げたことがあって、そのタレコミのコメントは結局wikipediawikiと呼ぶなという話で全部終わったのだけど、関係者くらいwikiに書けとかぬかしてるのも居て、はあ?と思ったものである。自己記述を推奨してどうする、みたいな。