ものがたり(旧)

atsushieno.hatenablog.com に続く

「権利侵害から違法性へ」を誤用して法律上存在しない利益に709条を適用しようとする人々

民法709条に関して、「近年は権利侵害から違法性が問われるようになっている」といった説明を聞くことが少なくない。典型的には、Wikipediaの「不法行為」の項で記述されているような内容がこれに該当する:

末川博は権利侵害の要件を違法性とするように主張し、我妻栄による学説を経て現在は権利侵害ではなく、違法性として要件が確立している。

また、それに便乗して、そもそも法律上存在しない利益を、あたかも不法行為の要件に引っかけることが出来るかのように主張する向きも見られる。

しかし、これらはいずれも間違いである。学問的潮流は違法性という考え方を既に過去のものとみなし、権利侵害要件にその機能を追求している(これは民法口語化のどさくさに紛れて「法律上の利益」を文言として含めた現在でも変わらない)。少なくとも、法律上存在しない利益は不法行為の要件に該当しないはずである。今回は、平井宣雄「損害賠償法の理論」をベースにこれを理論的に説明する。(引用中の傍点は全てstrongタグに置き換えた。)

損害賠償法の理論 (東大社会科学研究叢書 (38))

損害賠償法の理論 (東大社会科学研究叢書 (38))

ちなみにあらかじめ書いておくが、平井説は末川博、我妻栄らに代表される「伝統的」通説ではなく、それを批判する形で登場したものである。しかし刑法学で今でも団藤・大塚説がCOBOLのように広く使われているように、理論的に打破されているはずの末川・我妻説も、COBOL的に長期にわたって使用されるのではないかという懸念が無くもない。もっとも、この「損害賠償法の理論」が出版されたのは1971年なのだが…

また、これもあらかじめ書いておくが、同著における過失概念に関する議論をここで引用する予定は無い(本書における違法性議論の真骨頂は過失論への影響についての部分であるが、これは別評価となりうるもので、ここで議論したい点とは趣旨が異なるので、今回は取り上げない)。


本書の冒頭でも述べたように、四一六条が契約不履行についてのみならず、不法行為法に基づく損害賠償についても適用されることは、富善丸事件以降現在に至る、まずゆるぎない判例法であり、通説でもある。しかし、民法典起草者は、四一六条が不法行為に適用されないという立場を前提としつつ、「賢明ナル裁判官ニ任セタ方ガ安心」だという理由で、不法行為にもとづく損害賠償の範囲についてはわざわざ規定をおかなかったのであるし、その後も不法行為への適用を否定する学者は存しなかったわけではなく、最近ではむしろ有力となりつつある。(P.309)

(ここまでの章において、不法行為法において416条を適用する考え方は否定されている。)


ところで一方、日本の不法行為において、「違法性」が最も問題となるのは、周知のとおり、七〇九条にいわゆる「権利侵害」との関連においてである。「権利侵害より違法性へ」というテーゼはわが国不法行為法の理論的発展を示すものとして好んで用いられてきた。しかし、「過失」と「違法性」との関連が右のごとく問題となってくる以上、「権利侵害より違法性へ」というテーゼもあらためて検討せざるを得なくなってくる。そうして、学者は右のテーゼを前提として「違法性」を類型化しようと試み、それによって不法行為法全体を体系化しているのであるから、このことは、直ちに不法行為法全体の体系をどのように考えるか、という問題に関連していくのである。(P.320)

この本では何度か説明されているが、「権利侵害より違法性へ」というテーゼは末川博によって輸入・変形されたものである。


前節で指摘したように、「違法性」と「過失」とは―この概念の内容をどう規定するかは、後述のとおりまさに問題なので以下ではカギカッコ付きで表現しておく―我が国の判例の理由づけにおいては必ずしも明確に区別されることなく交錯した形であらわれている。しかし、わが国の不法行為理論は両者を峻別して扱うのが常である。たとえば、「違法性」は「客観的」要件として、「過失」は「主観的」要件として、それぞれ位置づけられているし、さらに「違法性」阻却事由の一つである正当防衛の要件として、侵害者の行為が「違法」であれば足り「故意過失」は要しないと解されている。(…中略…)ところが、これも後述するとおり、他方でわが国における「違法性」概念はドイツ民法学上にいわゆるRechtswidrigkeitに尽きるものでもなく、「過失」概念もまたFahrlässigkeitに尽きるものでもない、特殊な機能を荷った(ママ)のであり、わが国における「違法性」および「過失」概念は、多義的かつ複雑な機能を営んでいるのである。(P.324-325)


「違法性」ということばは、第一次的には「規範」ないし「法」に関する右のような社会過程のうちで、一定の状況における一定の確立された行動の型からの逸脱とそれに対するサンクションの発動―得にサンクションが「法規範」にもとづいて発動されると観念される場合―という一連の社会過程を指示ないし表象することば=概念である。そうして、「違法性」の「本質」をめぐる種々の論議は、―諸の社会的・歴史的・思想的背景のもとに―右のような一連の社会過程の或る側面に重点をおいて眺めるという、またはその或る側面に着目してそれをより精密に表現しようという、観点ないし工夫の差異をめぐる論争にほかならなかった、と思われる。
たとえば、「違法性」の「本質」は「権利侵害」にあるのか、それとも単なる「法益侵害」で足りるのか、という論議は、右の過程のうちで「規範」を成立させる基礎となる一定の利益に焦点をおきながら、「権利」という歴史的思想的背景―自然法的人権思想―を有する用語慣習にしたがって、表現するか、あるいはそのような用語慣習とは異なった背景―実証主義的思想―に立って表現するか、という差異にすぎないように思われる。
(…中略…)
したがってわれわれは、一般法学上の「違法性」概念にこれ以上関わりを持つ必要はない。むしろ、重要なのは、右の論議がドイツ民法典の法技術的構成とどのように関連しているか、という点である。(P.329-331)


(…前略)しかし、わが国において「違法性」が問題の焦点になったのは、必ずしも「違法性」阻却事由とか、物権的請求権との関連においてではない。言うまでもなく、「違法性」は日本民法七〇九条における「権利侵害」の要件との関連において最も論じられてきたのである。「権利侵害から違法性へ」という命題は、不法行為理論の発展を示すものとして、いわゆる「雲右衛門事件」(大判大正三年七月四日刑録一三六〇頁)・「大学湯事件」(大判大正四年一一月二八日民集六〇頁)の説明をもとに、あるいは「権利侵害論」の著者末川博士の名とともに、すべての教科書・注釈書の類で語られていることは、法律学を学ぶ者がひとしく知るとおりである。このようにわが国においては「違法性」概念がドイツ民法的文脈とは異なり、「権利侵害」との関連において登場するという現象は、わが国の不法行為法が統一的不法行為要件―すなわち七〇九条―を有するという構造に由来する。(P.354-355)

この後、民法起草者である穂積の法典調査会におけるやりとりがしばらく引用されている。興味深いのは、709条が権利の侵害ということを書いてある趣意が分からないという質問に対する氏の回答である:

損害ノ生スルト言フコト夫レカラ権利ノ侵害トイフコトトハ必ズシモ伴ハヌ……唯損害サヘアレバト斯ウ云フ風ニ致シテ置キマスルト云フト権利ノ侵害ハナクシテ損害ヲ他人ニ及ボシタト云フ場合マデモ這入ッテ不法行為ニ依ル債権と云フモノノ範囲ガ甚ダ不明瞭ニナリハ致シマスマイカ不法行為ト云フノハ元々題号ニ於テ説明致シマシタ如ク既ニアリマスル権利ヲ保護スル法デアリマシテ是ニ依ッテ新タニ権利ヲ創設スルノデナイ是ニ依ッテ権利ヲ保護スルノデアリマスカラソレ故ニ如何ナルコトニ依ッテモ自分ノ故意過失等ニ依ッテ他人ニ損害ヲ及ボス夫レニ就イテ債権ヲ生セシメルト云フコトニナリマスルト是迄認メテナイ所ノ権利マデモ創設スル場合ガアル其創設スル場合ト云フモノガ甚ダ範囲ノ分ラヌ広イモノニナリハシマイカト思フノデアリマス。」(P.359-360)

「損害が生じたと言うだけでは不法行為ということは出来ない」。僕は当たり前のことだと思うのだが、最近では理解しないままに不法行為を騙る人も増えているように思う。

「法律上の利益」に特別な意味を含ませようという向きもあるようだが、末川・我妻より後のCOBOLでない民法学の世界では、文言が変わったところで不法行為の要件が変わるわけではないというのが、一般的な理解である。id:atsushieno:20060819では民法改正前の内田貴の債権各論のテキストを引用したが、最近出版された改訂版においても、当該部分のスタンスは変わっていない。

なぜ「違法性」についてこのような錯誤が生じたのか、平井はそれを、不法行為に関する諸概念が、後になってドイツ民法学から「直輸入」されたことが原因であると指摘している。


周知の通り、「違法性」概念は、いわゆる大学湯事件によって判例法に導入され、その後の学説・判例の圧倒的支持を得てその地位を確立した。しかし、包括的要件に立脚するわが国不法行為法においては、「権利侵害」の要件が拡大されることは社会生活の進展に伴う裁判実務上必然的現象であるとすれば、大学湯事件に至るまでの時期においてもすでに、不法行為法上のサンクション(損害賠償)によって法的保護を与えるべきだという価値判断に裁判官が迫られた場合には、「権利」を限定的に解するという制約に立ちつつも、法的保護を与えようと努めたであろうと推測される。「権利侵害」の要件を操作することによって不法行為の成立を否定した判決はむしろ意外に少ないのである。雲右衛門事件のほかには、「湯屋営業権ナルモノハ民法上存在セサルモノナレハ」賠償を求めることが出来ないと判示した大判明治四四年九月二九日(民録17輯五一九頁)や、音譜については著作権ないし実用新案権が認められず、したがってこれを廉価に販売した者に対する売上低下を理由とした賠償請求は、「自由競争ノ結果ニ外ナラサレハ之ヲ以テ他人ノ権利ヲ侵害セルモノト云フヲ得ス」と判示した大判大正七年九月一六日(民録二四輯七一〇頁)くらいしか、これを見いだしえないように思われる。(P.369)

平井はここで権利侵害要件を無視ないし緩和した判例を4件列挙するが、うち3件は被害者に対する加害を意図した刑法上の犯罪に関連したものであることを指摘している。残り1件は銀行の営業報告貸借対応表にかかる虚偽広告を信じた預金者が、銀行の破産によって預金の払戻しを受けられなくなった件について不法行為を認めた判例であって、平井はこの判決の具体的結論の妥当性について疑問があるとしている(貸借対応表への虚偽記載は被害者に対する加害を意図した行為ではない)。

権利の正体については、財産権としての支配権・請求権・形成権、人格権としての身体権・自由権・名誉権などのカタログ化が図られたが、結局は大学湯事件を契機とする「権利侵害から違法性へ」の命題が登場することになった。末川博の輸入したドイツ民法学説を我妻栄が著書「事務管理・不当利得・不法行為」において具体的に日本法上の概念に落とし込んだことで広まった。


我妻博士の学説の意義は次の諸点に求められよう。
第一に、判例法の推移が雲右衛門事件から大学湯事件へという図式に要約され、大学湯事件に決定的な重要性が与えられた。
第二に、七〇九条の「権利侵害」の要件は「加害行為の違法性あることを意味する」という解釈がとられた上で、右の違法性決定について「一応の準縄を定める必要がある」とされ、判例法に則してその「準縄」が提案された。…(中略)…特に「侵害行為の態様と違法性」という観点から、判例が次の三つのカテゴリーに区別して分類された点が新しい。ここに含まれるのは、大審院が「権利侵害」を問題としなかった前記の諸判決が多い。(P.373)

この3つのカテゴリーとは

  • 刑罰法規違反
  • その他の禁止法規または取締法規定違反行為
  • 公序良俗違反の行為

となっている。

ところが、平井はこの判例の分類方法に重大な問題があることを指摘している。


右に見たように、通説は大学湯事件という一判決を一つの強力な発条として形成され、かつ判例の整理並びにその体系化に努めてきた。このことから、われわれは通説の説くところが判例の理由づけとして採用されていると予測することが当然許されるであろう。ところが、判例を眺めるとこの予測は裏切られる上に、むしろわれわれはきわめて逆説的ともいえる現象を見出すのである。というのは、通説をもってしても、判例に於いて実際に用いられる理由づけやその論理を説明できないと思われる現象が、言わば通説と判例の間の「断層」とも言うべき現象が、認められるからである。
(…中略…)
我妻博士が、右の基準にしたがって整理された諸判決においては、これらの基準が実際に用いられていないことは言うまでもないとしても、注目さるべきなのはそれ以降の判決においても、このような判断基準を言語上で表明し、それを結論を導くための理由づけとしている判決がほとんど見当らない(原文ママ)、という点である。むしろ、多くの判決は、依然として侵害された権利ないし利益を専ら問題とするか、あるいは特に問題とするところなく、損害の発生という要件の一つに解消させて扱っていると認められるのである。(P.376-377)

もっとも、判決の上で実際に用いられていないからといって、直ちに通説が「不当」であり無力であると言うことはできない、として、平井は以降通説の理論的妥当性について検討するのである。

まず平井は判例上用いられている「違法性」という表現の意味を、単純に客観的構成要件の実現という意味であることを読み解く。この構図は刑法学における違法性(とりわけ実質的違法性・可罰的違法性)の理解の変遷に類似するものがある。


繰り返し述べたとおり、わが国における「違法性」概念は、「権利侵害」の要件を拡大し、ドイツ民法八二三条一項の権利概念の制約から七〇九条を解放して統一的不法行為要件に復帰させる、という機能を果たした。わが国における「違法性」の特殊な機能は、まさにここにあった。すなわちそれは、法律上のサンクションの受取り手をより精密に画定するという、ドイツ民法上の違法性―ことばこそ同一の「違法性」ではあるが―と全く異なっていたのである。(…中略…)かくして、「権利侵害から違法性へ」の文脈における「違法性」概念は実際的にその機能を失った、と言うべきである。一見甚だ逆説的ではあるが、「権利侵害から違法性へ」の命題が、通説を支配するや否や、「違法性」概念はその機能を果たし終った(原文ママ)。「権利侵害から違法性へ」の命題が、わが国の不法行為法において有する実際の意味はここにある。そして、ここにしかないのである。(P.382-383)

平井の結論の表現は非常に分かりやすく、誤解の余地がない。